ダブリンの歴史
DUBLIN




バイキング到来以前(〜9世紀前半)
ダブリンは紀元前4000年ごろには農耕を行なう民族が居住していたと考えられている。ギリシャの古代の地図(AD140年)には、エブラナ『Eblana』という名の町がリフィー川近くに存在していた。6世紀ころには現在のクライストチャーチとフィッシャンブル通り辺りにケルト人が‘オウ・クリア’(Ath Cliath)と呼んだ集落を作り、タラや南東地方を結んで交易を営んでいた。さらにリフィー川の支流であったポドル川の岸、現在のダブリン城に‘ダブ・リン’(Dubh Linn)と呼ばれた修道院を中心とした村があった。


【Baile Atha Cliath】(ブレアオウクリア):リフィー川の浅瀬、現在のマシュー神父橋に木を組みあわせた橋があったので「橋のある町」(ブレアオウクリア)と呼ばれた。オウ・クリアは今日もゲール語名のダブリンで使われている。
【Dubh Linn】(ダブ・リン):ケルト人がリフィー川の支流のポドル川にできた水たまりを“ダブ・リン”「黒い水たまり」と呼び、それが今日の英語名の“ダブリン”となった。


バイキングの時代(9世紀前半〜11世紀初頭)
9世紀から10世紀の始めにかけて、バイキング(ノースメン)がアイルランドの各地に姿を見せ始め、リフィー川からもたびたびダブリンを襲った。やがてケルト人の集落‘オウ・クリア’と修道院の村‘ダブ・リン’を奪って、バイキングの町‘ディフリン’(Dyflin)を築き、917年には現在のウッドキーからダブリン城に砦を築いてヨーロッパ大陸と琥珀や銀、金属細工などの交易を行った。
バイキングは11世紀にはアイルランドの上王の覇権争いに加担し、1014年にブライアン・ボルーとクロンターフでの戦いに敗れた後はゆるやかな勢力を保ちながらやがてケルト人と融合、キリスト教へ改宗してクライストチャーチを建て、ケルトースカンジナビア文化を発展させていった。12世紀後半にはバイキングはノルマン人によって‘ディフリン’を奪われ、リフィー川北岸に移り、次第に民族意識も薄れてアイルランド人となっていった。


ノルマンの時代(11世紀初頭〜14世紀)
11世紀から12世紀、アイルランド国内では諸王間の抗争が絶えず、レンスター地方(アイルランドの東の地方)の王ダーモット・マクマローはブリテン島(イギリス)のノルマン人の王ヘンリ一2世に援軍を求めた。ヘンリ一2世はマクマローに忠誠を誓わせて、1169年にペンブルーク伯爵リチャード・ドゥ・クレア(ストロングボウ)率いる一軍をアイルランドに派遣した。ストロングボウはマクマローの王国を回復した後もアイルランドにとどまり、マクマローの娘と結婚し勢力を拡大していった。ストロングボウの勢いに脅威を感じ、ヘンリ一2世自らアイルランドに赴き、1172年にはダブリンを勅許の町として宮廷を建て、ブリストル地方から次々とノルマン人をダブリンへ移住させた。1204年、ヘンリー2世の後を次いだジョン王はダブリンを頑丈な石の壁で囲みダブリン城を建て、13世紀を通してノルマン人はイギリスと同じ性質の議会、法律、行政システムを制定し支配を強めていった。しかし14世紀に入るとアイルランド人の抵抗やノルマン人がアイルランド人と融合が進み、本国への忠誠が弱まったため、政府はダブリンを中心とする東海岸地方を柵で囲った“ペイル/The Pale”のみを英国の州として残しアイルランド人の出入りを厳しく制限した。また、城壁の外ではアウグスチヌス会やシトー会などいくつかの大修道院が村を形成していた。1348年にはヨーロッパで大流行した黒死病によってダブリンの人口は三分の一に激減した。


チューダー王朝〜スチュワート王朝(15世紀〜16世紀)
15世紀、ペイル以外の地域ではキルデア伯爵(フィッツジェラード)やバトラー家、バークス家などアイルランド人富豪が力を持つようになった。しかし1509年イギリス国王ヘンリー8世がアイルランド国王に就任するとアイルランド人を無視した統治を行なった。1534年、9代キルデア伯爵である‘Silken’トーマス・フィッツジェラードは反乱を試みたがヘンリー8世に容赦なく鎮圧され、領地を奪われ処刑された。ヘンリー8世はまた1534年、ローマ教会からイギリス教会を独立させ英国国教会(プロテスタント)を設立、自らを最高首長と宣言してアイルランドにも宗教改革を命じた。英国国教会の教義に代え、修道院を解散させて土地を没収した。さらにエリザベス1世紀の時代にはアイルランドの植民地化政策が押し進められ、トリニティカレッジを建てて、英国国教会の教義を推進した。アイルランド人による反乱は各地で起こったが、ことごとく鎮圧され、1601年キンセールの戦いが鎮められた後、法律や公的機関はイギリスのプロテスタントの移民が一切を取り仕切ることとなった。
しかし1660年の王政復古によってアイルランドの総督に就任したオーモンド公爵はアイルランドに好意的で、ダブリンの都市開発を進めキルメイナムロイヤルホスピタルの建築や街並みを整備、また演劇など文化を復活させた。


異教徒刑罰法〜ジョージ王朝時代(17世紀後半〜18世紀)
1685年イギリス国王に即位したジェームズ2世はカトリック擁護派であったためイギリス国民から反感をかい、名誉革命によって1688年イギリス王位を追われた。フランスに亡命し、翌年ルイ14世の援軍を率いてアイルランドに戻ったジェームズ2世は、アイルランドのカトリック教徒を味方につけ、新国王ウイリアム3世率いるイギリス軍と1690年7月ダブリン北方のボイン川でイギリス国王の座をめぐって戦った。ジェームズ2世は敗れ、ウイリアム3世の勝利により、アイルランドのカトリック教徒はさらに厳しい弾圧を受けるようになった。異教徒刑罰法が制定され、一切の政治的、社会的権利を奪われ、アイルランドの土地のおよそ4分の3がプロテスタントの所有となった。
一方18世紀のダブリンでは、大通りが作られ、広場を中心とした大掛かりな土地の開発が進み、裕福な貴族や商人は競うようにレインスターハウスやマンションハウスなどの大邸宅を建てた。国外からジェームス・ガンドンやリチャード・カセルズ、エドワード・ロベット・ピアスなどの建築家をダブリンに招き、旧国会議事堂(現在のアイルランド銀行)やフォーコーツ、カスタムハウスなど公共の施設を建築した。今日のダブリンの街並みや建物のほとんどはこのジョージ王朝時代に建てられたもので、ダブリンの建築においては黄金時代と言える。また、繁栄する貴族が後援となり肖像画や風景画などの絵画作品や、ヘンデルを招き1742年に『メサイア』の初演を行うなど華やかな文化も開花した。


アクトオブユニオン(18世紀後半〜19世紀)
この時代のアイルランド議会の議員は、裕福なアングロアイリッシュプロテスタントの支配者がほとんどで、イギリスに有利な法律の制定やイギリスの権勢に対して、アイルランド議会からは活発な反政府運動が起こり、イギリスからの独立を強く望むようになった。やがて1782年に憲法改正が認められヘンリー・グラタンによるグラタン議会が成立、アイルランド議会はイギリスから独立を果たした。さらにカトリックに対する刑罰法が緩和され、諸制限も徐々に撤廃されていった。しかし議会が独立しても実際には行政は依然としてイギリス政府の統制下にあった。
1789年のフランス革命はその自由と平等の精神とともにアイルランドに大きな影響を与えた、「植民地民族主義」精神がわき起こり、ウォルフ・トーンを中心に1791年、カトリックの解放と議会改革を求める急進的なユナイテッド・アイリッシュメンが設立された。宗教や国籍の違いにかかわらずアイルランドの自立を勝ち取るというスローガンで1798年に各地で武装蜂起を企てた。蜂起は失敗に終わったが、イギリス政府はその勢いに脅威を感じ、問題の収拾のためにイギリスとアイルランドの議会の統合を提案、アイルランドのプロテスタント議員は自らの地位を守る策としてそれを受け入れる賛成票を投じた。こうして1800年、合邦法(アクトオブユニオン)が成立しアイルランドは議会とともに完全にイギリスに合併された。

合邦法はダブリンの経済に多大な損失を与えた。議員はアイルランドを離れてロンドンで暮らし、ダブリンの高級住宅街は賃貸住宅やホテルとなった。カスタムハウスやロイヤルエクスチェンジなどの公共の建物は用途を失い、各地で不在地主が増え、やがて商工業も急速に衰退した。

1828年、カトリック教徒の法廷弁護士ダニエル・オコンネルはクレア地方から議員として当選、翌年にはカトリック教徒にも行政や政治への参加を認めるカトリック解放法の成立を勝ち取り、カトリック教徒の権利回復に大きな第一歩を記した。1841年オコンネルは、1688年以来カトリック教徒最初のダブリン市長に選ばれた。
オコンネルはさらに「青年アイルランド党」の指導者と共にイギリスとの合併を撤廃しようとする運動をおこした。しかし1843年のダブリン大集会が軍隊と大砲で鎮圧され、オコンネルや指導者たちは投獄されて、およそ20年間におよぶ法の枠内での大衆運動というオコンネルの手法は敗北に終わった。


飢饉、アイルランド文芸復興(19世紀)
1845年から49年にアイルランド全土を襲ったじゃがいもの胴枯れ病によっておよそ100万人が餓死し、100万人が国外へ移民していった。英国政府が策を講じないまま移住が続いたため、地代の取立てが不可能になった地主が土地を売りに出し、農民はさらに困難な状況に追い込まれた。やがてアメリカへ渡ったアイルランド移民からアイルランドの政治的自由を獲得しようとするフェニアン運動が起こり、借地人の権利を求める土地同盟が結成、さらにチャールズ・スチュワート・パーネルが指導者となって強力な農民運動が展開された。土地の所有権が認められ、さらにアイルランド自治法案が議会に提出された。

また、1893年にはダグラス・ハイドが中心になりゲーリックリーグ(Gaelic League)がダブリンで設立、母国語であるゲール語やゲール文化を復活させることによってアイルランド人に民族意識をよみがえらせる運動を開始した。さらにケルト文学の復興を推進していたイエーツやグレゴリー婦人が中心となり、アイルランド文学協会を設立、1904年にアイルランド初の国立劇場であるアビー座を開くなどアイルランド民族主義運動が活発になっていった。


イースター蜂起〜自由国設立(20世紀始め)
英国議会はアイルランド自治法案を可決していたが、第一次世界大戦が始まり、その施行が停止されていた。アイルランド共和国同盟(IRB)のメンバーによって、英国が戦争に奔走する好機をとらえ蜂起の計画が秘かに進められた。1916年4月24日のイースターにアイルランド義勇軍とアイルランド市民軍が中央郵便局とその他13の要所を占領し、パトリックピアスが『アイルランド共和国宣言』を読みあげた。2万人の英国政府軍に対しておよそ1600人のアイルランド軍は6日間の戦いの後、捕えられ、指導者たちは処刑された。この蜂起によって英国の支配を廃止しようとする気運が高まり、1918年の総選挙ではイースター蜂起の共和国宣言を継承するシン・フェーン党が議席数の4分の3を得て圧勝した。翌年、英国の議会には参加せず一方的にマンションハウスで第1回アイルランド国民議会(ドイル)を開催、イーマン・ドゥ・バレラが独立を宣言した。
宣言を認めない英国との間に2年間の抗争が続いたが、ついに1921年「イギリス−アイルランド条約」に調印し、アルスターの6県を除く26県がアイルランド自由国として自治権が認められた。しかし条約を容認するアイルランド自由国政府とアルスターも含めた共和国成立を主張する条約反対派に分かれ武力闘争に発展した。暗殺や紛争が続いた内戦は2年以上にも及び、多くのダブリンの建物は爆破や火災によって再び深い傷を負った。


アイルランド共和国(20世紀中〜)
1923年イーマン・ドゥ・バレラは内戦を終結、フィアナ・フェイル党を結成し1932年には政権を獲得して首相となった。序々に独立達成への歩みを進め、1938年にはロンドンに招かれてイギリス=アイルランド協定が取り交わされ、遂に経済紛争の解決やイギリス軍隊の撤収が決定した。1948年、政権を交代したフィン・ゲール党の党首、ジョン・コステロはアイルランド26州のイギリス連邦からの離脱を宣言、翌1949年4月アイルランド共和国の成立がアイルランド諸都市で正式に宣言され、悲願の独立を達成した。


近代(21世紀〜)
1950年代からの強力な経済政策とEUへの加盟によって実を結んだ1990年代の急激な経済成長で、EU諸国から「ケルティックタイガー」と呼ばれたアイルランドは、この数年の間に町の様子が著しく変化した。アイルランドの人口のおよそ3分の1が住むダブリンには、次々と新しいオフィスビルやショッピングモールが建築され、高級デパートにはブランドショップ、古いパブに並んでチョコレートバーやシアトル系のカフェが並ぶ。行き交う人々の国籍も豊かで他のヨーロッパの町同様コスモポリタンへと変わりつつある。メインストリートオコンネル通りの中央、空に突き刺さるような「光りのモニュメント」に象徴されるように、これからもダブリンは発展し続ける。




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