アイルランドの歴史



宗教改革とイギリス化
15世紀、イギリスは実際には赴任しない国王代理という制度を設け名目だけでもアイルランド王権を保持し、事実上は有力なアイルランド人伯爵が総督としてアイルランドを統治していた。しかしイギリスとヨーロッパの関係が変化するにつれて、アイルランドは戦略的な重要性を帯びるようになった。再びアイルランド支配を確立したのが、チューダー朝である。1494年チューダー家のヘンリー7世はアイルランド人総督を罷免し、新たに新総督をイギリスから派遣した。この時期からアイルランドに対する政策は植民者と土着のアイルランド人を引き離しておく従来の方針から一転して、ゲールの文化や生活習慣を否定し、全島をイギリス化していく方針に変わっていった。

1536年、アイルランド国王の称号を得たヘンリー8世は『領地献上のうえ再授封』という融和政策をとり、アイルランド中の領地は国王から改めて領主達に封授されアイルランド人領主も王の封建的臣下として位置づけられた。それに従ったアイルランド族長には新しく爵位を授けた。さらにヘンリー8世はイギリスで始めた宗教改革をアイルランドにも強要し、ダブリンで行われた宗教改革議会は修道院解散、教会財産の没収を決定した。しかしこの議会はアイルランドの中のイギリス化された部分を代表するにすぎず、実際宗教改革がなされたのは、当初からイギリス王の支配力が及んでいたいくつかの都市とダブリン周辺のペイルの中に限られていた。これ以外のゲール勢力が強い地域では依然としてローマカトリックがまもられていた。

アイルランド人やアングロ・ノルマン人の領主はこの政策に抵抗しカトリックに固執したことによって状況がいっそう複雑になった。しかし、エリザベス1世の強引な政策に対する9年戦争の後に抵抗の拠点アルスター地方を本拠地としたヒュー・オニールが率いるアイルランド人領主連合が1605年に鎮圧され、エリザベス1世の跡を受けて即位したジェームズ1世はアイルランド全土を統治した最初のイギリス人国王となった。それを機にイギリス化は急速に進んだ。敗れた北部の指導者たちが自発的に土地をあけ渡したので、ジェームズ1世はアルスター地方に英国国教会、スコットランドの長老派教会などのプロテスタントを多く移入させ、これによりアルスター地方はプロテスタントの支配する地域となった。現在の北アイルランド問題の起源はここにある。アルスター地方のカトリックのアイルランド人は追放され、移住してきたプロテスタントの地主集団は次第に規模を拡大していったが、この計画的な植民によって北部アイルランドには宗教のみならず、生活様式も他の地方とは異なる社会が形成されていった。


プロテスタントの征服
アルスター植民で土地や財産を没収されたもの達にとって、17世紀半ばのイギリスにおけるスコットランドの反乱や国王チャールズ1世と議会の対立は勢力回復の機会だった。土地を没収されカトリック信仰を制限されたアルスターのアイルランド人の不満は蓄積され、ついに1641年に政府に対して反乱を起こした。反乱はアルスター全域に広がり、数千のイギリス系プロテスタントの移入者が虐殺され、さらに全土に社会不安をまきおこした。これを鎮圧するイギリスでも翌年、国王軍と議会の間の市民革命がおこり以後数年間のピューリタン革命期には2つの島の間で複雑な戦争がつづいた。この間数回にわたりプロテスタント側とカトリック側に交渉がもたれていたが、1649年、チャールズ1世を処刑し、王政を廃止してイギリス共和国を樹立させたクロムウェルは、カトリックの反徒と王党派の軍隊が占領しているアイルランドへ軍隊を進めた。絶対王政に対する闘争の最後の仕上げと1641年のプロテスタント虐殺の報復を意図するクロムウェル率いる12,000の遠征軍に対しアイルランドは長い内乱のあと、もはやなすすべがなかった。このときドロエダやウェックスフォードなど各地で情け容赦ない虐殺と大規模な土地の没収が行われ、カトリック領主は西部の貧しい土地へ追放された。これによりアイルランドの土地の大部分がプロテスタントの所有するところとなり、ここにイギリスのアイルランド支配は確立された。

やがてイギリスでは王政復古が行われ、1685年カトリック教徒の国王ジェームズ2世が即位した。ジェームズ2世のカトリック保護の姿勢はアイルランド国内のプロテスタントには不都合であった。1688年名誉革命によってジェームズ2世はイギリス王位から追われフランスに亡命し、翌年ルイ14世の援軍を率いてアイルランドに戻った。アイルランドのカトリックはジェームズ2世を支援した。新国王ウイリアム3世(オレンジ公 ウィリアム)率いるイギリス軍とジェームズ2世のアイルランド/フランス連合軍は1690年7月ダブリン北方のボイン川でイギリス国王の座をめぐって戦い(ボイン川の戦い)、これに破れたジェームズ2世は再び亡命の身となった。最後の拠点となったリムリックだったが、1691年ウイリアム3世は和睦を決めカトリック信仰の自由や地位の保証を認めた。しかし、イギリス議会はこれを認めず、条約は結局守られなかった。

ウイリアム3世の勝利によりアイルランドのカトリックは一層厳しい弾圧を受けるようになりアイルランドにおけるプロテスタントの優位が確立した。プロテスタントのアイルランド土地所有権は保障され、政府はカトリック住民の利害を考えることなくアイルランドを統治できるようになった。1691年以降に追加制定された異教徒刑罰法などによって、カトリックの政治的、経済的諸権利がいっそう剥奪された。カトリックはミサを禁じられたのをはじめ、議会や公職から締めだされ、教師になることも禁じられた。財産・相続についても分割相続を強制するなどさまざまな禁令が設けられたため、カトリック地主は全体の7分の1の土地を所有するにすぎなくなった。こうしてプロテスタント地主とカトリック小作人という関係が定着する。アイルランド議会はプロテスタントが議席を独占する非代議制の機関でカトリック教徒たちは1727年に選挙権も剥奪された。


イギリスとの合併
1750年以降アイルランド議会では活発な反政府運動が起こった。家畜法や羊毛法などにより、イギリスと競合する商品の対英輸出等が禁じられ、イギリス議会はアイルランドの法律を制定する権利をもつなどイギリス人はますます権勢をもち、教会や国家における要職はさらにイギリス人の独占するところとなった。プロテスタント議員の不満はつのり、「植民地民族主義」精神がわき起こった。1778年アメリカ独立戦争に伴う英仏戦争勃発の危機が迫るにつれアイリッシュプロテスタントは英国の窮状に乗じ貿易の自由化や議会法の改正を要求し圧力をかけた。

アイルランドの法的独立を求めるアイリッシュプロテスタント要求は1782年に認められ、ヘンリー・グラタンによる、グラタン議会を成立させた。以後18年間、アイルランド議会ははじめて立法の自主権をにぎり、イキリス国王の下でウェストミンスター議会と対等な議会となった。関税の自主権、裁判権が確立し、また1793年のナポレオンとの戦争におけるイギリス政策によりカトリック教徒に選挙権を与え、大学への入学や宗教活動、土地の所有を認めるなどのカトリックに対する諸制限も徐々に撤廃され、法律上の行為能力を回復していった。しかし政治的権利の完全な回復は実現しなかった。

1789年のフランス革命はその平等と自由の精神とともにアイルランドに大きな影響を与えた。1795年、急進的なカトリック解放と議会改革を求めるため秘密結社ユナイテッド・アイリッシュメンが設立された。その主導者はウォルフ・トーン、ナッパー・タンディ、そしてエドワード・フィッツジェラルドなど主に北の長老派議員であった。ユナイテッド・アイリッシュメンは武力に訴えてでも、議会制度を改革し、宗教や国籍に関係なくアイルランドにすむすべての人々が力をあわせてアイルランドの自立と近代化を達成することを目的として1798年に武装蜂起した。ナポレオンに派遣されたフランスの援軍があったにもかかわらず、反乱は鎮圧された。

しかしイギリス政府はその勢いに脅威を感じ、問題の収拾のためにイギリスとアイルランドの議会の統合を提案、アイルランドのプロテスタントは自らの地位を将来的にも守り得る最書の策としてそれを受け入れた。こうして、1800年、合邦法(アクトオブユニオン)によりアイルランドの議会は自らの消減を承認し、ここにアイルランドは完全にイギリスに合併された。そしてイギリス議会に32名の上院議員と100名の下院議員を送り込むことになった。


オコンネルのカトリック解放
1801年から1921年まで、アイルランドは独自の議会を持たなかった。イギリスとの併合はアイルランドの経済や社会に惨たんたる結果をもたらした。アイルランドの議員たちは大半をロンドンで過ごさねばならず、アイルランドを離れてイギリスで暮らす不在地主になり、商工業も急速に衰退した。現在共和国を構成する地域は産業革命もほとんど起こらず、不在地主制の下で貧しい農業経済に甘んじていた。

1800年におけるアイルランドの人口は450万人、そのうちプロテスタントは50万人、地主階級のほとんどがプロテスタントであったのに比べ315万人のカトリック教徒は大半が農業労働者か小作人であった。しかし刑罰法が緩和されて以来、徐々に新しいカトリックの中産階級が出現していた。教育を禁止する措置が解除されたのでカトリックでも法律家や医師になることができた。カトリックの法廷弁護士ダニエル・オコンネルは1823年、カトリック協会を設立しカトリックに対して完全な自由を求める立憲的な解放連動を展開した。オコンネルは1828年の議員選挙に当選したが政府はカトリック教徒であるかぎり無資格であるとして議席を与えなかったが、各地でオコンネルを擁護する運動がおこったためついに政府も屈して、1829年、平和的にカトリック教徒に議会の議席を与え、公職に就くことを認めるカトリック解放法の成立をかちとった。

オコンネルはイギリスとの合併を撤廃しようとする運動をおこした。1830年の運動は強硬な鎮圧にあって失敗、1840年再び運動を開始した。アイルランド各地で大規模な集会を組織していた青年アイルランド党の指導者たちによって週刊誌「ネイション」が創刊されるなど運動は盛り上がった。しかし1843年、ダブリン集会が軍隊と大砲で鎮圧され、オコンネルや主要な指導者たちは投獄され、法の枠内での大衆運動というオコンネルのやり方は敗北をきした。


次のページへ



このページのトップに戻る
エールスクエアのホームページに戻る


Copyright 2005 Globe Corporation. All rights reserved.