アイルランドの歴史



大飢饉/フィニアン運動
アイルランドの人口は急激に増え1841年までに820万人に達したが、人口の3分の2は農業に依存していた。1845年に発生したジャガイモの胴枯れ病によって、ジャガイモを主食としていたアイルランド人は大飢饉にみまわれ、さらにチフスが流行し大被害となった。1849年までおよそ100万人の死者を出し、この災難を逃れるためおよそ100万人がイギリスや北アメリカヘ移民していった。しかしこれは過剰人口という大問題をある程度綬和するという皮肉な結果ももたらした。

青年アイルランド党の指導者たちは大飢饉を打開するため経済政策をイギリス議会に要求したが認めらなかった。失望した党員たちはアイルランド人による政府を樹立するため1848年に武装蜂起を決行した。この蜂起は失敗に終わったが、青年アイルランド党の思想は強く後世の世代に影響を与えた。

その後20年間は政治運動は抑圧され、アイルランド人の大がかりな海外への移住が続いていた。やがてアメリカに渡ったアイルランド人の移民の間で、イギリスの利益に打撃を与えることによってアイルランドの政治的自由を獲得しようとする革命的秘密結社フィニアン運動(IRB/Irish Republican Brotherhood/1858年)が組織された。ジェイムズ・スティーブンズやジョン・オレアリーをリーダーとするフィニアンは1867年に反乱を計画したが、行動をしめしただけで鎮圧された。しかしフィニアン運動が重大な脅威となったため遂にイギリス政府もアイルランド問題の抜本的解決が必要であると認識するに至った。

このような次第に激化する運動を鎮静させるため、グラッドストンらイギリス自由党は政策の方向変換をはかった。アイルランド国教会制度の廃止(1869)、第1次土地法の成立(1870)、第2次土地法の成立(1881)など、立憲的方策による問題の解決は徐々に進行した。1885年の土地購入法により、アイルランド小作農に土地購入代金を全額貸与することが定められ、自作農創設による土地問題の解決がはかられた。また同年、アイルランド自治協会(ホームルール)が創立された。

国民党とフィニアンによって結成され、アイルランドの土地はアイルランド人にと宣言した土地同盟(1879)は小作人に基本的な権利−小作権の安定、公平な地代、小作権売買の自由を保証することを目的とした運動により広範な支持を集めた。土地同盟は自治協会と共同してチャールズ・スチュワート・パーネルを指導者とする自治党を結成し、‘ボイコット戦術’など強力な農民運動を展開した。

パーネルはその後、1885年の選挙においてこの農業改革を利用しアイルランドの政治的独立をめざして新しい運動を展開した。しかし、自治と独立の間題は、保守党およぴアルスター・プロテスタントの激しい低抗にあって難航した。英国のグラッドストーン内閣の2度にわたるアイルランド自治法案はいずれも否決され、アイルランド自治運動の勢いは結局1891年のパーネルの死によって失われた。


アイルランド自由国の成立
パーネルの死後、19世紀末には、アイリッシュルネサンスと呼ばれるアイルランド文芸復興など民族主義のいっそうの高揚が見られた。1884年設立されたゲーリック運動競技協会はアイルランドの伝統競技を奨励し、イギリス化を抑止した。文学界では、W・B・イエーツが文芸復興に活躍し、1893年にダグラス・ハイドとヨウン・マクニールによって設立されたゲール同盟はゲール語と文学、音楽を全国家的レベルで復活させようとした。これらは20世紀の多くの民族運動家に影響を与えた。1900年アーサー・グリフィスによってシン・フェーン(われら自信による)とうたった新しい非暴力主義の政党が結成された。シン・フェーンの政策はアイルランドの議員はイギリス議会から撤退し、改めてアイルランドの国民議会を結成することであった。

1912年に再々度提出されたアイルランド自治法案に対し、統一党は断固反対し、プロテスタントが人口の過半数を占めるアルスター地方では義勇軍を組織し、反議会運動を行った。一方ダブリンではアルスター義勇軍に対抗するためアイルランド義勇軍を結成、アイルランドは内乱の危機に直面していた。

1914年パーネルが目指したアイルランド自治法案が遂に可決された。しかしその実施は第一次世界大戦の勃発によって大戦終了まで施行を停止された。英国が戦争に奔走する好機をとらえアイルランド共和国同盟(IRB)のメンバーによって、蜂起の計画が秘かに進められた。

1916年4月24日、イースター祝祭週間にアイルランド義勇軍とアイルランド市民軍がダブリンの中央郵便局とその他の13の要所を占領し、臨時大統領としてパトリック・ピアースが『アイルランド共和国宣言』を読みあげた。2万人の英国政府軍に対しておよそ1600人のアイルランド軍は6日間の戦いの後、捕えられ、主導者たちは処刑された。しかしその英雄的行為はアイルランド人の愛国心をよびおこし、独立の悲願を世界にむけて訴える結果となった。

翌年にはイースター蜂起の共和国宣言を継承するシン・フェーン党が再結成され、民族運動の流れは自治から共和国をめざすものへと変化していった。アイルランドの政治的運動は激化し、アイルランド義勇軍やアイルランド共和国軍(IRA)は憲兵や武装警官に対してゲリラ戦を展開した。政府は非情な報復でもってこれに答えた(イギリスーアイルランド戦争)。1918年の総選挙で議席数の4分の3を得て圧勝したシン・フェーン党員は翌1919年ダブリンで一方的に第1回アイルランド国民議会(ドイル)を開催、独立を宣言した。大統領と閣僚を選出し、大統領にはイースター蜂起の主導者の一人、イーマン・ドゥ・バレラが指名された。

宣言を認めないイギリスとの間に1919年から1921年まで猛烈な抗争が続いたが、ついに1921年の12月、「英愛(イギリス・アイルランド)条約」に調印し、イギリス連邦自治領としてカナダ、オーストラリアなどの他の英国自治領と同等の憲法上の地位が認められ、26の県がアイルランド自由国として自治権が認められた。しかし条約の内容は共和派の要求を完全に満たすものではなかった。最後まで異議をとなえた条項はイギリス国王への忠誠誓約条項と北アイルランドの6県が自由国から除かれたことであった。

あくまでも独立した共和国成立を主張する反対勢力も強く、国民議会で長期間にわたって激しい討争が展開され、アイルランドは独立と同時に内戦となった。ドゥ・バレラ率いる条約反対派(共和派)とアイルランド自由国政府の激烈な武力闘争は2年以上にも及び、首相や議員が相次いで暗殺されるなど不穏な社会情勢が続いた。共和派は強硬な姿勢をくずさず政府に反対し、議会に参加することも拒否しつづけた。しかし共和派の反政府抗争は政府の強硬な鎮圧の前に勢いを失いドゥ・バレラは共和派に闘争を中止するように呼びかけた。


アイルランド共和国の成立
1922年の総選挙でコスグレーブが大統領に選ばれ、コスグレーブ政権下で若い閣僚たちは能力を発揮し精力的に仕事ととりくんだ。アイルランド国民党系のヒーリーが自由国初代総督(英国国王代理)に任命されるなど、イギリス政府の協調にも助けられ次第に自治の範囲を広げていった。 秩序がおおむね回復した1923年、アイルランドは国連に加盟しそれをきっかけに諸外国や他のイギリス自治領との接触や協調を深め主権の確立をはかっていった。

共和派は北アイルランドの分離に対し先のイギリス・アイルランド条約を否認し続けていた。しかし北アイルランドが自由国からの分離をのぞみ、またイギリスが連合王国の公債におけるアイルランドの分担義務を免除するということと引き替えにアイルランドは北アイルランドとの現状の境界線をそのまま受け入れることに同意した。分担義務の免除はアイルランド政府にとって喜ぶべきことであったが、その代わりアルスター統合に対する希望を一切放棄しなければならなかった。

ドゥ・バレラ率いる共和党は議会に参加せず院外活動で政府を攻撃し続けていたがコスグレーブは共和党の活動を阻止するため、議会に参加し憲法を守らなければ選挙に出馬できないという法案を規定した。ドゥ・バレラもついに屈し、共和党フィアナ・フェイル党を結成、党員を率いて国民議会に参加した。折りしもイギリスの経済危機にまきこまれ、コスグレーブは支持者を減らし、逆に支持者を増やしていった共和党は1932年の2月の総選挙で勝利をおさめ共和党内閣を発足させた。

共和党内閣は、土地購入代金のイギリスヘの返済を拒否し、イギリス国王に対する忠誠誓約を廃止するなど徐々に独立達成への歩みを進めた。アイルランド経済の立て直しのためイギリスと経済紛争を展開した。1937年には新憲法を制定して主権をもつ独立民主国家と宣言し、アイルランド自由国の名称をすて、国名をアイルランドの古名である“エール”と定めた。従来の総督の地位が全国民に選出される大統領に取ってかわったが、このことはたとえ大統領が名目上のものであれ一つの象徴的な変化であった。また国民議会における最も多数の議席を擁する政党の指導者が首相の座につくことになったのである。

1938年イギリス首相ネビル・チェンバレンは両国間のあらゆる問題を全面的に解決するためドゥ・バレラをロンドンに招いた。イギリス=アイルランド協定が取り交わされ、経済紛争の解決、イギリス軍隊の撤収など、アイルランドとの関係に劇的な変化をもたらした。イギリス=アイルランド協定により、ドゥ・バレラは一般大衆の支持をさらに増やし、総選挙で共和党は圧倒的多数を制した。第2次世界大戦に際してはイギリスやアメリカ合衆国からの再三の圧力にも屈せず、中立政策を堅持し、そのため、戦争終結時にイギリス首相チャーチルが戦勝演説でアイルランドを非難しドゥ・バレラ首相が大国の思い上がりを批判するという場面もあった。

1948年に政権を交代したフィン・ゲール党(統一アイルランド党)の党首、ジョン・コステロはアイルランド26県のイギリス連邦からの離脱を宣言した。それは従来イギリス国王が行使してきた対外問題に関する一切の権限をアイルランド大統領に付与するものであった。共和国法案は12月、満場一致で成立した。ドゥ・バレラは北アイルランドが含まれなかったことを遺憾としながらも心から支持を表明した。翌1949年4月アイルランド共和国の成立がアイルランド諸都市で正式に宣言され、悲願の独立を達成した。しかしながら北アイルランド9県のうち6県はイギリス連邦王国の自治領としてとどまった。

イギリスとの関係もしだいに改善され、1965年には自由貿易地域協定を結び、同年、北アイルランド首相と共和国首相がはじめて会談し、アルスターとの古い紛争の解決に努力が払われた。しかし1968年のカトリック教徒による公民権運動以降、プロテスタントとカトリックの両過激派グループによるテロ活動が活発化し1972年にロンドンデリーにおけるデモに対する弾圧で13名の犠牲者がでた、この「ブラディサンデー事件」をきっかけに、この1年間に死者470名、10000件を超える射撃、およそ2000個の爆弾が仕掛けられ、531人の逮捕者を出し、北アイルランド紛争において最も悲惨な年となった。
この後も北アイルランドでは南北統一をスローガンとし、ゲリラ活動を続けるカトリック系武装組織IRAの襲撃や依然として根強い民族主義紛争がある。しかしイギリス、北アイルランド、アイルランド共和国は三者会談で現実的解決策を協議するなど、前進する努力が払われ、IRAの停戦の決定を経て、遂に1998年に「人権の尊重、安全対策、雇用機会均等、2年以内にすべての準軍事組織が武器を廃止すること、警察や刑法制度の見直し」など11項目に及ぶ包括的な和平合意(ベルファスト合意/グッドフライデー合意)にこぎつけた。武器の廃止に関して遅れはあるが、英国政府、アイルランド共和国政府の協力のもと、人権問題、刑法制度の再検討など、北アイルランドの早期の治安回復のため、合意の実行を押し進めている。


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