アイルランド文学

英語で書かれたアイルランド人の文学作品は、英国古典文学、そしてゲール語で書かれた文学と区別するためアングロアイリッシュ文学と呼ばれている。またアングロアイリッシュという言葉には、18世紀から20世紀に活発になった文学的伝統の民族主義運動も表わす。アイルランド文学としての最も基本的なものは古代や中世のゲール語で書かれたものに多く見出されるが、アイルランド人の思想や情緒などが最も活き活きと表われているのは英語で書かれたアングロアイリッシュ文学である。




18世紀−アングロアイリッシュ
アイルランドにおける英国の統治が進み英語が日用語化していった。18世紀以降に現われたアイルランド人による英語で書かれた文学作品は皮肉にもイギリスに対する痛烈な批判や社会風刺であった。最初にあらわれたアングロアイリッシュの顕著な文学者は、両親はイングランド出身だがアイルランドで生まれ教育をうけたジョナサンスウィフト(1667〜1745)である。スウィフトは最後のゲーリックアイリッシュ貴族の詩人オーガン・オラテイルと同時代であったが、2人は文学活動においての世界は接触することがなく、皮肉にも一つの伝統が生まれたとき一つが消え去った。オーガン・オラテイルのテーマは伝統的なゲール民族のカトリック社会の崩壊、そしてスウィフトのテーマはイギリス政府の介入によるアイルランドに対する屈辱であった。

生まれてすぐに孤児となったスウィフトは伯父の世話になり、トリニティカレッジを卒業後ロンドンに出て、風刺物語“書物合戦”(The Battle ob the Books/1704)、“桶物語(The Tale of a Tub/1704)を出版した。当時政治論争の活発であったイギリス政界において政治ジャーナリズムとして活躍するが、政情の急変がありイギリス政界進出の夢はやぶれる。
1714年のダブリン聖パトリック大聖堂の大主教への任命によって、政治家になる野望が消え、失意と不遇の境遇を文学活動に打ち込む情熱に変わった。“ガリバー旅行記”(Gulliver's Travels/1726)は主人公の船員、ガリバーの難破漂流記に仮託して四部の物語からなるスウィフトの代表的風刺物語で、スウィフトの強烈な風刺精神と鋭い人間観察がよく表われている。“ドレーピアの書簡”(The Drapier Letters/1724)はイギリス政府のアイルランド通貨政策を痛烈に攻撃し、スウィフトの身柄に懸賞金がかかる程で、イギリス政府もついにその政策を放棄せざるをえなくなった。


アイルランドがイギリスの文学にもっとも大きな貢献をしたのは何といっても18世紀の劇作、とくに喜劇においてであろう。王政復古時代から、ロマン主義の繁栄までのイギリスの『風習喜劇』はアイルランド人によって作られたものである。“募兵官”(The Recruiting Officer/1706)のジョージ・ファーカー(1678〜1707)、 “世の習い”(The Way of the World/1700)のウイリアム・コングリーブ(1670〜1729)、“ウェイクフィールドの牧師”(The Vicar of Wakefield/1766)、“負けるが勝ち”(She Stoops to Conquer/1773)のオリバー・ゴールドスミス(1728〜1774)、“悪口学校”(The School for Scandal/1780)の リチャード・ブリンズリー・シェリダン(1751〜1816)など。これらの作家たちが示した唯一の“アイルランド性”は、喜劇に登場する愛すべき人物像であった。− 酒好きで短気で気前がよく、おしゃべりで涙もろい − 彼らはステージアイリッシュメンと呼ばれた。これらの作家たちはプロテスタントの学校であるトリニティカレッジで教育を受け、文学世界の中心であるロンドンに引き付けられ、すぐに帝国の魅力に夢中になった。バーク、シェリダンは英国で政治家としても活躍した。


19世紀−文芸復興運動・アイリッシュルネサンス
19世紀初頭のアングロアイリッシュ文学は民族主義と自由主義、そして革命がこの時代の空気であり、一方ロマン主義の影響も現われ初めていた。長い間忍従に耐えてきたアイルランドはみずからの足で立ち上がりみずからの特異な本質を語り初めていた。この世紀後半にいたって、ケルト民族の文学的伝統を継いだ文学者が現われ、英語で書きながらアイルランド古典文学再生の先駆をなした。こうして彼等の探り出した源泉はアイルランド文芸復興として結実するのである。

エドワード・バンティング(1773〜1843)は“アイルランド古典音楽”(Ancient Music of Ireland/1796)を発表し、トマス・ムーア(1779〜1859)は“アイルランド歌曲集”(Irish Melodies)で、これらの曲に自由、愛、思い出をテーマに美しく、もの悲しい旋律の英語の詩を書いた。これはイギリスで歌われるようになり、結果的にアイルランド文芸復興を促進することになった。
文学におけるロマン主義運動とフランス革命の精神は1798年のユナイテッドアイリッシュメンの蜂起に感化された愛国的な詩や民謡を多く生みだした。しかしこれら世紀末の特徴となった楽観主義と創造性の思想は、アイルランド議会を廃止し、文化活動の水準を下げる合邦法(1800)によって崩れ去った。


その後10年間は地方主義小説がもてはやされた。その先駆者マライア・エッジワース(1767〜1849)はプロテスタントの地主の娘で、当時の社会の実情に通じそれを“ラックレント館”(Castle Rackrent/1800)と“不在地主”(The Absentee/1812)、の中で深い洞察と明るいユーモアで描いた。これらの小説は英語の読める人々に向かってアイルランドの貧困と不合理の実態を示そうとした。彼女の意思はモーガン夫人, カトリックの小説家ジェラード・グリフィンや、1794年、タイロンのゲール語を話す両親から生まれたウイリアム・カールトンによって引き継がれた。“守銭奴ファドラーファ”(Fardarougha the Miser/1839)は小作人の立場からアイルランドのまずしい田舎の生活を生き生きと描いた。

19世紀の前半を通してジョン・オドノバン、ユージン・オカリーなどの古典学者、ジェレマイア・J・カラナ、エドワード・ウォルシュ、サミュエル・ファガソンなどの詩人によるゲール語の手書き写本の研究、民謡や訳本など数多くの作品が生みだされた。これらの活動は、ネイション新聞(オコンネルのカトリック解放法と後の合邦撤回運動の間中断していたアイルランド民族主義運動を再開するため1842年に創立された。)を中心に展開した。 国民全体を読者層とし、自治国アイルランドの地位を確立することにこだわったネイション新聞は地方主義作家の終りを予告した。

全国的に広がっていったこのような文学的活動は、アイルランドの政治的独立を求める運動と関連しあって、アイルランド人としての自覚をうながし、19世紀後半にアイルランド文芸復興と呼ばれる民族文化運動につながっていく。それは強烈な民族主義とゲール語の復興(ゲール語同盟)と密接な関係をもち、国民と政治と文学を愛国的信条のもとに結び付けることによって国民精神を向上させようとするものであった。その目標はイギリス文学の伝統を脱して古代ケルト精神に復帰し、アイルランドの神話、伝説、歴史、文化、民衆の生活感情、風土物語などを題材に取り上げて、独自の国民文学をつくりだすことであった。つまり、文学技法の改革よりも民族固有の主題の発見を重視する運動である。ここにおいて、アイルランドの民族意識と伝統に根をおろした真のアイルランド文学が成立するのである。


W・B・イエーツ
文芸復興運動の指導者、ウイリアム・バトラー・イエーツ(1865〜1939)は、ダブリンで生まれ、すぐにロンドンに移り住んだ。夏をスライゴーの祖父の家で過ごし、少年期の心にスライゴーの美しい自然の風景が深くきざまれた。15歳でダブリンにもどり、父の影響で画家を志し美術学校に入るが、一方では詩作も始め、2年後詩人になる決心をかため退学、再びロンドンにでてオスカー・ワイルドなどの文学者と交わり詩人として成長していった。
フィニア伝説群から題材を見出し、フィンの息子を主人公とする、長編詩“オーシンの放浪”(The Wanderings of Oisin/1889)において、この英雄が妖精ニァムとともに西方の魔法の島々をめぐり300年をへて故郷へ帰るという幻想的な物語を、繊細巧妙な韻文で語り、詩人としての地位を確立した。“葦間の風”(The Wind Among the Reeds/1899)では新しい詩想と韻律を獲得している。また地方農民の間につたわる民話、妖精話を収集し“ケルトの薄明”(The Celtic Twilight/1893)などの民話集におさめ、種族の記憶の保存に努めた。イエーツが1891年に国民文芸協会を設立したのはこのような気運を一般に広めるためであった。

伝承文学に対する関心はダグラス・ハイド(1860〜1949)において一層徹底する。彼は“暖炉のそば”(Beside the Fire/1890)、“コナハト地方の恋の歌”(Love Songs of Connacht/1893)にゲール語の民話、民謡を収録し英訳をつけて発表した。
やがて、ダグラス・ハイドやスティーブン・マッケンナが中心となって1893年、アイルランド言語復興組織「ゲール語同盟」が結成された。これは衰退しかけていたアイルランドの言語の復活やアイルランドの民話を見直しアイルランド語での出版を目的とした。純粋に文化的運動として設立されたにもかかわらずこの実践運動は文学のみならず、一般の生活風習まで深い影響を及ぼし、民族的改革を生みだすきっかけとなった。


また、19世紀の時代精神がより真剣に求めていたのは、小説におけるリアリズムと同じく、イプセンの劇に見られるような問題劇、すなわち社会的現実に対決して疑問や不正を露見することであった。エドワード・マーティンはイプセンの影響をうけアイルランドの田舎の生活のありのままを描いた。一方ジョージ・ムーア(1852〜1933)は、ゾラの自然主義を英文学に取り入れ、小説“エスターウォーターズ”(Esther Waters/1894)で一躍名声を得てアイルランドに戻ってきた。ゲール語同盟はゲーリックアイリッシュ文学者を育成するため彼にゲール語に翻訳できる簡単な物語の執筆を依頼した。


アビー座
1899年イエーツはアイルランド文芸劇場を設立して本格的な演劇運動に入った。初期にあってはイエーツの民話劇“キャスリーン伯爵夫人”(Countess Cathleen)のほかに、エドワード・マーティンの“ヒースの丘”(The Heather Field)やジョージ・ムーア“未墾の原野”(The Untilled Field/1903)やゲール語で書かれたハイドの劇が上演されるなど運動の方針は必ずしも定まらなかったが、1903年、グレゴリー夫人やシング、パドリック・コラムが加わり、アイルランド国民劇場協会へと発展、1904年にはダブリンにアイルランド初の国立劇場であるアビー座を開設し、ここを拠点にしてアイルランド演劇は黄金時代を築いた。

ジョン・M・シング(1871〜1909)はダブリン大学で音楽を学びドイツやフランスを放浪するうちラシーヌなどのフランス演劇に傾倒するようになっていった。しかしパリでイエーツに出会い帰国を勧められ、西海岸のアラン諸島を訪れたのが生涯の転機となった。地元の人々と共に生活し、ゲール語を学び、アビー座でアイルランドの民衆生活や伝説を題材とした劇を発表、アイルランド演劇復活運動の中心人物となる。シングはアイルランド文学の発展は国民性や祖国愛よりも生活や情緒に対する観察によってあらわされることを戯曲という形式で実証した。荒涼とした自然の中で生きる人々を描いた“海へ駆りゆく人々”(Riders to The Sea/1904)、“聖者の泉”(The Well of the Saints/1905)などは、その辛辣な皮肉とアイルランド西部の方言を会話に活かした写実的で詩情豊かな作品である。ほら吹きの流れものが一小村にまきおこす喜劇を描いた“西の国の伊達男”(The Playboy of the Western World)は1907年の初演で反道徳的、反民族的という理由で有名な騒動を引き起こした。アイルランド国民演劇はシングによってイギリスから独立し世界的になったといえる。

グレゴリー夫人(1852〜1932)は写実的で力強い会話体を駆使して農民生活の滑稽な側面や独立運動の挿話などを“噂のひろまり”(Spreading the News/1904)、脱獄した独立運動家を扱った“月の出”(The Rising of the Moon/1907)などでアイルランド国民演劇の成立発展につくした。

文芸復興運動に参加したジョージ・ラッセル(AE)(1867〜1935)は神秘主義者であり愛国者であり農業改革者でもあった。イエーツと同じくアイルランドの伝説を題材にし、張り詰めた感動的な調子と豊かなイメージをもって詩を書いた。詩劇“デアドラ”(Deirdre/1902)、“神聖幻想”(The Divine Vision/1904)は詩や散文に共通する霊性の深さがある。彼の後継者のジェイムズ・スティーブンス(1882?〜1950)はさらに冒険的、実験的な精神をつらぬいた。1912年にダブリンのスラム街を描いた小説“雑役婦の娘”(The Charwoman's Daughter)、古典的空想物語の “黄金の壷”(The Crock of Gold)、最も神秘性に満ちた詩集 “まぼろしの丘”(The Hill of Vision)を立て続けに出版した。彼の散文の実験的試みは、彼につづく空想作家フラン・オブライエン、 メヴィン・ウオール、さらにジェームス・ジョイスに伝承されていった。

イエーツは中期以降も“鷹の井戸”(The Hawk's Well/1916(ど、日本の能の手法をとりいれた象徴的な伝説劇や寓話劇を書き続け、また演劇活動や内乱時代の体験をふまえて“塔”(/z)(1916)など、日本の能の手法をとりいれた象徴的な伝説劇や寓話劇を書き続け、また演劇活動や内乱時代の体験をふまえて“塔”(The Tower/1928)や“螺旋階段”(The Winding Stair/1933)など優れた詩集を発表して世界的な名声を得た。また晩年の作には現実生活への幻滅とそれがイエーツ自信に及ぼす悲劇的衝動とが理性的な深い思想によって表現されている。しかしイエーツの詩全般を特徴づけているのは作家のケルト的気質に負う瞑想的な美と奥深い理想主義であった。1923年ノーベル文学賞を受賞。イエーツはアイルランドの生んだ最も偉大な詩人である。





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