聖人の島アイルランド



アイルランドのキリスト教
近年、アイルランドにおけるローマカトリック教会の権威は弱まりつつあるが、それでもアイルランドは敬虔なカトリック信者の国であると言える。実際にミサなどに参加する人の割合は世界で最も高い国のひとつ。
アイルランド全土ではおよそ390万人*1がローマカトリックで、1,329の教会教区におよそ4,000人の神父が勤めている。1991年の国勢調査ではおよそ60%が教会に行くと回答(ダブリン在住の人は少ないが、地方の人はほとんどがミサに通う)。

カトリックの教義に反する離婚や人工妊娠中絶についてはアイルランドにおいて、1995年の国民投票によってようやく離婚が認められた。また人工妊娠中絶は2002年の投票では否決されている。

■1991年の国勢調査(アイルランド共和国)■
アイルランド教会(アングリカン/英国国教徒):2.5%
長老派会員(プロテスタント):0.4%
メソジスト教徒(プロテスタント):0.1%
ユダヤ教:0.1%以下
(3%が他の宗教、または無宗教。2.4%が無回答)
*1-アイルランド全土(北アイルランドとアイルランド共和国)の人口はおよそ566万人。

<ローマカトリック(Roman Catholic)>
アイルランドにおけるローマカトリックはそれぞれの大司教が統括する4つの教会域/(北)アーマー、(東)ダブリン、(南)カシェル、(西)トゥームがあり*2、さらに細かく司教区に分けられる。アーマーの大司教が全アイルランドの大司教で枢機卿(Cardinal)と呼ばれる。
カトリック教会はさまざまな教育や医療機関、福祉に貢献し、また1998年にはアフリカ 、アジア、中央アメリカ、南アメリカ、オセアニアなど92の国と地域に3,277人のアイルランド人宣教師を派遣した。
*2-教会域の分類は11世紀末にアイルランドの修道院制度がローマカトリックの組織に再編成された当時からほとんど変わっていない。

<アイルランド教会(The Church of Ireland)>
アイルランド教会は英国国教会(アングリカン/プロテスタント)に所属する教会。
アイルランド教会は12の司教区に分けられ、アーマーの大主教(The Archbishop of Armagh)が全アイルランドの大主教である。すべての重要な決定は大主教、司教、司祭代表の216人と信徒の代表432人から成り立つ教会会議(Synod)が行う。アイルランド教会もさまざまな教育や社会福祉活動を行なっている。(アイルランド教会の信者総数は38万人でそのおよそ75%が北アイルランドの人々。)
英国国教会とは、イギリス王のヘンリー8世が離婚を認めないローマ教会に反発し、1534年にイギリスの教会を独立させ、自らを最高首長と定め設立したもの。教義上はプロテスタント主義であるが、カトリック教会の儀式を保持し、聖職位階制度はローマ教会のそれを範にしている。その違いは頂点に立つものが教皇ではなく国王であったこと。

その他のアイルランドの教会
ベネディクト会/シトー会/カルメル会/フランシスコ会/アウグスティヌス会/ドミニコ会/長老派教会/メソディスト教会/クエーカー教徒/ユグノー派
 


●プロテスタントとは
16世紀、ローマカトリック教会内の改革運動から起こった宗教改革でマルチンルターがとなえたルター主義(教皇位の世俗化や教会体制の腐敗を批判し、カトリック教会の改革を求めた運動)がきっかけとなり、カトリック教会(または西方教会)から分離してできた、特に福音主義を理念とするキリスト教諸派。プロテスタントは教義の解釈の違いによって何百という教派に分かれている。

●カトリックとプロテスタントの違い
カトリックが教会とその教義を重視するのに対して、プロテスタントは個人の信仰心を重視する。
カトリックは聖母マリアの像や聖人の像は特別な座を占め、聖なる者の象徴として崇敬されている。また教会における一連の行事である秘跡について、カトリックは7つの秘跡(洗礼、聖体、告白、叙階など)がある。対してプロテスタントは聖書だけが信仰の権威で、聖書に記された2つの秘跡(洗礼と聖体拝領)のみ行なう。プロテスタントは教派によって礼拝の仕方は異なるがプロテスタントの礼拝の多くは、神の言葉を信じることや、秘跡を重んじること、平信徒の役割を強調することなど、その基本的な特色を共有している。また平信徒が賛美歌を歌ったり祈ったりして礼拝に参加することを奨励する。
 





聖パトリック(St Patrick/385?〜461)
アイルランドの守護聖人、聖パトリックはローマ帝国支配下のブリテン島の西海岸で、高官の息子として生まれた。16才の時にアイルランドの盗賊団にさらわれて、6年間アントリム県スレミシュ(Slemish)で牧夫として働いた。この間、主人の監視のない時に神に祈りを捧げていたと言われている。フランスへ逃れ、故郷に戻って聖職者となった聖パトリックは、その後フランスのオーゼール(Auxerre)の修道院で学び、432年、先にローマ教皇に任命されアイルランドで布教していたパラディアス司教の後継ぎとしてアイルランド島に赴いた。
聖パトリックはサウル(Saul)から布教を始め、444年にアーマーに最初の教会を築いた。

キリスト教が伝わる以前にアイルランド島の人々が信仰していたのはケルトの宗教で、森や山や大地に宿る自然の神々を崇拝し、ドルイドと呼ばれる神官が絶対的な権力を持っていた。
ケルトの聖地タラへ赴いた聖パトリックは、タラの上王の前でドルイド僧の能力に挑戦することとなった。ドルイドの魔術に対し奇跡を起こし最後にはドルイドを屈服させた。
その後キリスト教が急速に広まりやがて各地の王もドルイド僧も改宗していった。聖パトリックはケルトの宗教を否定することなく、その信仰や文化と融合する形で布教を進めたためアイルランドでは一人の殉教者も出さずにキリスト教が広まった。

444年、ローマ訪問の後に聖パトリックは、アイルランドにおけるキリスト教の中心地としてアーマーに教会を設立した。461年3月17日(おそらく)サウルで亡くなったとき、アイルランドはキリスト教の司教区の中に組織化された小王国が各地に形成されていたと考えられている。
聖パトリックの生活と伝道については、5世紀ごろのアイルランドを記述した歴史書や考古学書は残されておらず、ラテン語で聖パトリック自身が記述したものと、2世紀のちに書かれた年代記から推測されるものである。



聖パトリックについては多くの伝説がある。有名なものでは「アイルランドの人々がキリストの教えを必要としている夢を見た」ことがアイルランドに布教するきっかけとなった。また「怪物を退治し、ヘビをアイルランドから永久に追い出した」、「ローマカトリックの三位一体の教義をタラの王に説明するのにシャムロックの葉を用いた」など。


アイルランドの聖人
<聖コルンバ/聖コルムキル>
(St Columba/St Colm Cille/521-597)祭日6月9日
アイルランドの三守護聖人、そしてアイルランドの12人の使徒のひとり。
王族の息子としてドネゴールで生まれ、モビルとクロナード修道院で学び25歳になる前に聖職を授けられた。15年間アイルランド中を旅してキリスト教を布教、そしてデリー、スウォーズ、ダロー、ケルズにおいて修道院の設立に尽くした。しかし上王との内紛の末追放され、コルンバは563年、42才でアイルランドを離れ、スコットランドのアイオナ島に12人の弟子とともに渡り、そこに修道院を設立してピクト族のキリスト教化に務めた。アイオナ島の修道院は聖人と学者の島としてヨーロッパ中に知れ渡り、数世紀に渡って繁栄した。またこの修道院で定められた厳格なアイルランド的な修道院制の諸規則は、緩やかな規則のベネディクト派の修道院にとって替わるまでスコットランドやイングランドを始め、西ヨーロッパ各地に建立された多くのアイルランド系修道院でも用いられた*1
またコルンバは詩人としての才能にすぐれ、コルンバが創作したとされる多くのラテン語やアイルランド語の詩が残されている。また修道士の書記として、クロンマクノイズの年代史ではコルンバ自身の手で3百冊の本が書かれたと記述がある。さらにラテン語で書かれた聖歌「コホックの書(Cathack)」*2はアイルランドで現存する最も古い装飾写本で、コルンバの作品と考えられている。

<聖ブリジット>
(St Brigid/St Bridget/Mary of the Gael/453-523)祭日2月1日
アイルランドの三守護聖人のひとり。
聖ブリジッドはルース県、ダンドークの近くのフォーアート(Faughart)で生まれたと考えられている。 父親はレンスター地方の族長で、聖パトリックによって洗礼された。母親はその宮殿のまかない婦であった。 子供のころから聖パトリックの説法を熱心に聞き、早くから信仰心に芽生え慈悲深く、助けが必要な人に食物と衣類を与えていた*3
アーマーの聖メル(St Mel)に宣誓して宗門に入り、ブリジットは7人の修道女と共にクロハンの丘のふもとで修行、470年にキルデア(Cill - Dara)に修道士と修道女両方のための2つの修道院を設立した。アイルランドでの最初の女子修道院長となり、キルデアは学問と精神性の中心地に発展した。その芸術学校で製作されたブックオブキルデアはアイルランドにおける装飾写本でもっとも美しいもののひとつと賞賛されていた(300年後に消失してしまった)。‘ゲールの聖母マリア’と呼ばれ、ダウンパトリックに聖パトリックと聖コルンバとともに埋葬されている

■アイルランド三守護聖人
聖パトリック(St Patrick)
聖コルムキル(St Colm Cille)
聖ブリジット(St Brigid)



*1-著述や写本を修行のひとつと励行していたベネディクト派の影響でのちにケルズの書などのケルト文化の最高峰と称される装飾写本がアイオナ島の修道院で製作された。




*2-ダブリンロイヤル
アイリッシュアカデミー所蔵











*3-ある日ブリジッドは母親が管理している搾乳場からバケツいっぱいのミルクを全て人に与えてしまい、母親から叱られることを心配して神に祈った。家に戻ってみるとバケツのミルクは再びいっぱいになっていたという言い伝えがある。


<聖フィニアン>
(St Finian/470-549?)祭日12月12日
『アイルランドの聖人の教師』。アイルランドの修道院制度の設立に多大な貢献をした。カーロウ県マイシャルで生まれ、若くして3つの教会を設立し、その後ウェールズに渡り修道院で学んだ。そして修道院での苦行が神に仕える最もよい方法であると確信し、アイルランドに戻り、まずウィックロー県アゴール(Aghowle)に修道院を建てた。当時、小王国の部族単位でまとまっていたアイルランドにおいては、修道院制度は容易に受け入れられ、すみやかに浸透していった。そしてフィニアンは520年にミース県クロナードに修道院を設立した。クロナード修道院はすぐれた門弟を多く輩出し、その門弟たちもアイルランド各地に修道院を建て、ますます修道院制度が発展していった。クロナード修道院の門弟で特に卓越した12人は「アイルランドの12人の使徒」と呼ばれ、アイルランドだけでなく、大陸やブリテン島にアイルランドの修道院を広めた。フィニアンは549年に亡くなったが、クロナード修道院は16世紀まで繁栄した。

<聖キーラン>
(St Kieran, St Ciaran of Clonmaenois/516-556)祭日9月9日
アイルランドの12人の使徒のひとり。聖キーランはコナハト地方で大工の息子に生まれた。クロナードの聖フィニアン学校で学んだ修道士の中でも最も学識があったと言われ、クアラ国王の娘の家庭教師となった。キーランは聖エンダとともにアラン諸島のイニシュモア島で7年間隠遁生活を送った後、イゼル(Isel)と呼ばれたアイルランド中央部の修道院に入った。しかしキーランの過剰な慈善行為が修道院の経営を圧迫したため修道院を出され、エインジン島(Inis Aingin/Hare Island)で8人の隠修士とともに過ごし、やがてオファリー県のシャノン川のほとりに移り住んだ。その地に築いた修道院はのちにクロンマクノイズ修道院として、数世紀にわたってアイルランドの学問の中心として繁栄する。

<聖ブレンダン>
(St Brendan, St Brendan of Clonfert/484-577)祭日5月16日
アイルランドの12人の使徒のひとり。トラリーで生まれ、聖イタ(St Ita)に教育を受け、512年にエルク司教(Bishop Erc)から聖職を授けられたと考えられている。560年ごろクロンフェート修道院と学校を建て、そこには一時期3000人の修道士が修行をしたと伝えられている。ブレンダンとブレンダン兄弟は<聖なる島>を探して大西洋を大航海し、7年間大西洋の島々でキリストの教義を説き、最後にはアメリカ大陸へ辿り着いたという伝説がある。その事跡を記した(Brendan the Navigator/ブレンダン航海記)はコロンブスより早くアメリカ大陸に到達した伝説の英雄として全ヨーロッパに広く知れ渡った。船乗りの守護聖人。

<聖コルンバヌス/聖コルマン>
(St Columba, Columbanus, Colman/543?-615)祭日11月23日
聖コルンバヌスは543年ごろにレンスター地方で生まれ、ダウン県のバンゴール修道院で学んだ。 590年に12人の弟子とともに大陸に渡来し、ガリア人にキリスト教の福音を説いた。ブルゴーニュ地方の王に歓待されボージュ山脈のアンヌグレイ、リュクシーユとフォンテーヌに修道院を設立した。しかし、フランク教会はアイルランドからの宣教師が強い影響力を持つことに反対し、特にコルンバヌスが定めたアイルランド的な典礼や復活祭日算定法などで対立、教会会議でコルンバヌスの意見は認められず、さらに、宮廷と法廷の行動を批判したことにより、ボージュの地を追放された。スイスを放浪し、ついにはローマをめざしてライン川を下った。ミラノの国王から受け入れられ、613年にボッビオに修道院を設立、コルンバヌスは615年に亡くなったが、聖人の教えを受け継いだ多くの弟子たちがさらに数多くの修道院を設立し北イタリアでその後数世紀に渡ってキリスト教の中心地として栄えた。

<聖ゴール>
(St Gall/?-630)祭日10月16日
アイルランドで生まれ、バンゴールで聖コルンバと聖コムゴールに教育を受けた。聖コルンバヌスが大陸に渡る際に付き添った12人の弟子のひとり。ボージュ山脈のリュクシーユ修道院の創設を助けた。 聖コルンバヌスがフランスから追放された時、スイスに同行した。ゴールはスイスで残留して、Steinach 川 (Steinach River) 流域で隠遁生活を送った。この地に聖ゴール修道院(のちのザンクトガレン修道院)が建てられ、聖書の学者であったゴールから受け継がれた学校はのちに文学、芸術、音楽の中心地となった。ゴールは2つの主教職と修道院長の申し出があったが断り、隠修士であり続けた。ゴールはスイスの使徒として崇拝されている。

■アイルランドの12人の使徒
St Ciaran of Saighir,
St Ciaran of Clonmaenois,
St Brendan of Birr,
St Brendan of Clonfert,
St Columba of Tir-da-Glasi,
St Columba of lona,
St Mobhi of Glasnevin,
St Ruadhan of Lorrha,
St Senan of Iniscathay,
St Ninnidh of Loch Erne,
St Lasserian mac Madfraech and
St Canice of Aghaboe.














<聖エイダン>
(St Aidan/?-651)祭日8月31日
アイルランドで生まれ、アイオナ島で修道士になる前は聖セナン(St Senan)のもとで学んだと言われる。633年ブリテン島北のノーサンブリアのオズワルド国王の要請で、 エイダンは司教としてリンディスファーン*4に赴き修道院を設立、そして聖書の知識、表現豊かな説教、神聖さ、質素さ、学習、慈善深さ、そして聖エイダンが起こす奇跡によって王国全体に知れわたっていた。 エイダンの建てたリンディスファーン修道院は、英国のアイオナとして、学問の中心そして、北イングランドにとって宗教活動の中心として数世紀に渡って栄えた。
リンディスファーン修道院ではアイオナ島から受け継ぎ、さらに大陸の影響を受けたヨーロッパ文化がみごとに開花した。

<聖ケビン>
(St Kevin/498-618)祭日6月3日
ケビンは国王の家系としてレンスター地方のホワイト・ファウンテン (White Fountain) の要塞で生まれたと言い伝えられている。 ケビンは聖クロナンに洗礼を受け、7才から聖ペトロックに教育を受けた。12才から修道士とともに暮らし、聖職を授けられてすぐに、グレンダロッホの2つの湖の谷の洞くつにおいて隠遁生活を送った。ケビンのうわさが広まり、追従者が次々と集まったため、7年後に弟子のためにその地に修道院を設立した。ケビンはローマに巡礼の旅をしグレンダロッホにはローマから持ち帰った遺品も多く納められた。やがてグレンダロッホ修道院を中心として集落がどんどんと広がっていった。ケビンは再び隠修士となったが、弟子たちに懇願され4年後にグレンダロッホに戻り120才まで修道院長として務めたと言われている。

<聖エンダ>
(St Enda/?-530)祭日3月21日
戦いの偉業で有名な兵士であったが、姉妹である聖ファンチュアはエンダに戦いをやめさせ結婚をするように説得した。しかしエンダが婚約者が亡くなったことを知った時、修道士になることを決心し、そしてローマに巡礼に行った。そこで聖職を授けられアイルランドに戻ってドロエダに教会を建てた。のちに義理の兄弟であったムンスター地方のエンガス国王(King Oengus of Munster)からアラン諸島のイニシュモア島の土地を与えられ、そこにキリーニー修道院(Killeaney)を建て、さらに10カ所に修道院の基礎を築いた。イニシュモア島は学者の島となり、聖ブレンダン、聖フィニアン、聖コラムキル、聖キーラン他多くの修道士がこの地で学んだ。 530年に亡くなり、イニシュモア島の"Tighlagheany"に埋葬されている。
クロナードの聖フィニアンと共にエンダはアイルランドの修道院設立に大きく貢献した。

<聖フィンバー>
(St Finbarr/550-623)祭日9月25日
コナハト地方バンドンで生まれ、キルケニーのキルマカヒル修道院(Kilmacahil monastery)で教育を受けた。明るい色の髪の毛だったことから他の修道士たちからフィンバー(Fionnbharr/白い髪)と呼ばれた。ローマに巡礼の旅に出、帰国の途中にウェールズの聖ディビッドを訪ねた。コーク県の離れ小島で隠修生活を送り、後にリー川河口(corcagh mor)に修道院学校を建てた。フィンバーの神聖さに多くの弟子が集まり、村が広がってそこからコークの町ができた。フィンバーはコークの最初の司教で、コークの守護聖人である。
*4-リンディスファーン:現在のイングランドの北部ノーサンバランド地方のホリー島/Holy Island/。616年に戦いに敗れたイギリス北部の王国ノーサンブリアの王の息子がスコットランドでアイルランドの修道士に出会い、キリスト教に改宗、633年に戦いに勝利して自ら王となった時にアイオナ島から修道士(聖エイダンと12人の修道士)を招きリンディスファーンに修道院を設立した。






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